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市道大3-32号線(旧街道舟子峠)

ルート:

福島県会津若松市

路面:

ダート
通行日: 2002/06/09 通り抜け: 可能
地図: T/Mapple: 18-B-4
芦ノ牧温泉の東側、会津鉄道の舟子トンネルの上に旧街道舟子峠がある。現在ここは会津若松市の市道で、車両通行止となっている。路線名は『大3-32号線』ということで旧街道の名称としてはちょっと味気ない。
進入してみると、もともと狭隘であることに加え、草木が生い茂っているため幅員はミニマムで四輪での通行はかなり厳しい。ただ、冬とは異なり、ボディーに接触するのは枝そのものではなく葉なので、車へのダメージはほとんど無いようだ。軽四輪なら幾分楽かもしれないが、現状では車幅に気を遣わなくて済むバイクや自転車の方が適している。

■舟子峠について
江戸時代の初期は、大内峠−山王峠−五十里村を通る日光街道(南山通り)が会津藩主の参勤交代路の脇街道であり、江戸廻米の重要なルートでもあった。ところが、1683年(天和3年)栃木県男鹿川下流が大地震による山崩れのためにせき止められ、五十里村が湖底に沈み通行不能になった。
このため、南山通りに代わる街道として、1695年(元禄8年)に、面川−小塩−舟子−松川−野際−大峠−三斗小屋−氏家を通る「南山松川通り」が開設されたが、1699年(元禄12年)に豪雨で甚大な被害を受けてしまった。こうするうち、1723年(享保8年)湖が決壊し五十里村が現れ、南山通りが復活したため、舟子峠を通る南山松川通りは寂れることとなった。
明治時代になり、県令三島通庸が会津三方道路の南へ向かうルートとして、大内峠越えではなく大川(阿賀川)沿いの道筋を選んだことから、舟子峠は再び栄えた。舟子峠の頂上には舟子の「つの屋」が茶屋をだし、村には宿屋・馬宿もあったという。
しかし、三方道路開削から19年目の明治35年9月、台風による暴風雨・洪水で道路は崩れ、橋は流失してしまった。その後は、1903(明治36年)に現在の国道121号のルートに新たに道が開削され、舟子峠の街道としての歴史は終了することとなった。
市道大3-32号線(旧街道舟子峠)(その1)
[1]
ようやく見つけた入口には無情にも『車両通行止』の看板看板が立っている。
とりあえず様子を見てみることにする。
[2]
入り口付近の舗装はすぐに切れ、ダートとなる。路面は硬く締まり支障はないが、ほとんど管理されている様子は見えない。草木がのびのびと育っている。
[3]
中央に草が育っている。どの程度の頻度で車が通ればこのようになるのだろう。あるいは、交通が途絶えてからどのぐらいの期間このようにわだちが残るのであろうか。
[4]
ここは芦ノ牧温泉の近くで、人里からもそう離れてはいない。が、標高は上がり、かなり山中に入ってきている。
正面に見えているのは、国道121号(118号)沿いに流れる大川(阿賀川)の対岸の山である。
[5]
写真を見る限りでは、木漏れ日を浴びて一見爽やかな感じを受けるかもしれない。
しかし、幅員はミニマム、待避所などは存在せず、離合は不可能である。閉鎖されている訳ではないので、対向車が絶対来ないとは言えないのだ。
[6]
ここは沢の少し手前の地点である。
道中央の草は床下を撫で、左右の草と木の枝はボディー側面から離れない。加えて、上から延びる小枝をフロントガラスで押し上げながら進んでいる。路上に確保された空間の断面は、車のそれよりも小さいのだ。
方向転換は不可能。バックで戻るか、このまま進むか。ドアで草を押しやり車を降りてみる。どうやら沢の先は、幾分状況が好転するようだ。
[7]
沢の先も厳しいことには変わりはないが、先ほどの場所よりはマシである。陽の光も届き、気分的にも楽になってくる。この先通行不能となっても、バックで戻る覚悟はできた。
[8]
ここが『舟子峠』であった。
眺望はないが雰囲気はよい。かつては人の往来で賑わっていたのだろうか。木陰で一服する人の声が聞こえてきそうだ。今はひっそりと人里とは別の時間が流れている。
[9]
峠でふり返る。
まあよくもここを通ってきたものだと思う。繁茂する草木には閉口したが、路面はしっかりしていたのでここまで来れたのだ。
さて、まだ道は半分残っている。この先の状況はどうなっているのだろう。
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市道大3-32号線(旧街道舟子峠)(その1)(その2)
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